近藤 正和
Masakazu KONDO
意識下の無意識
2002年以来ボールペンを用いてのドローイングをしてきました。はじめは偶然に、そして多くの実験的試みをし、様々なモチーフを描きました。(抽象的であったり、様々な色、絵の具や材料 (色鉛筆、クレヨン、木炭、画材以外のマテリアルも)との組み合わせやフォーム等)
-自分のスタイルを見つけるまで...
動物を描くこと: ドローイング制作の重点は、私が何を描いているかではなく、どのように描くかにある。そしてそのように意識して制作すると、観察することの重要さを改めて体験しました。ドローイングというのは現実のコピー(複写物)ではありません。
最も重きを置くのは、まなざしの解釈を一つの描かれているドローイング上にあらわすことである。 興味はそのまなざし。それを数多くの、そして時代の違った芸術家たちから学びました。
特にセザンヌ、ベラスケス、そして葛飾北斎、伊藤若冲など。 そしてそれは第一に絵画言語(英Picture language、独 Bildsprache)、その背景となる動機についてでした。
ドローイングのプロセスの中で、人はモチーフ(対象物)を観察しながら紙の上に同時に描いている時に、 生理学的に自分の手の指の完全なコントロールを失っている。
曲芸的な場合を除いて、普通はまずモチーフ(対象物)を観察し、 そしてそれを紙の上に変換しようとする。その時ドローイング上で無意識と、 そして記憶と今まさに見たものを混ぜ合わせる。
芸術的なドローイングはこの対象物と紙の上とを行ったり来たり往復するまなざしによって成立し、 そしてこの制作プロセスは記憶と忘却に影響する。 それゆえ人は描かれた絵画の一筆一筆のマチエールから、
その芸術家の制作中の感情の動きを読み解くことができるのです。
だから私にとって重要なのは、何を書いているのかではなく、 そのモチーフ(対象物)を力強く、そして印象深く、その質量感、 存在感をあらわす事ができるのかである。
ドローイングのプロセスの中で、人はモチーフ(対象物)を観察しながら紙の上に同時に描いている時に、 生理学的に自分の手の指の完全なコントロールを失っている。
曲芸的な場合を除いて、普通はまずモチーフ(対象物)を観察し、 そしてそれを紙の上に変換しようとする。その時ドローイング上で無意識と、 そして記憶と今まさに見たものを混ぜ合わせる。
芸術的なドローイングはこの対象物と紙の上とを行ったり来たり往復するまなざしによって成立し、 そしてこの制作プロセスは記憶と忘却に影響する。 それゆえ人は描かれた絵画の一筆一筆のマチエールから、
その芸術家の制作中の感情の動きを読み解くことができるのです。
だから私にとって重要なのは、何を書いているのかではなく、 そのモチーフ(対象物)を力強く、そして印象深く、その質量感、 存在感をあらわす事ができるのかである。
私は2007年のRundgang(学生展、ミュンスター芸術アカデミー・ドイツにて)に 200 ×300cmの大きなサイズのドローイングを制作しました。
私はそこから学んだのは、 ただ巨大化していくだけでは芸術家的新しい見地を示せないだろうということでした。 それは私にとって転換点でありました。
ただドローイングをするだけでは満足できなくなったのです。 何故ならドローイングや絵画などは壁に掛けられなければならず、
それは作品のプレゼンテーションの可能性を大きく制限するからであります。
ドローイングは平面である。
そのドローイングでオブジェを制作することは逆説的である。
しかし、私の興味は正にこの二つの矛盾する価値の中にある。
URL: http://masakazukondo.net/